狂気を帯びた異型のパワー/松本俊夫(映像作家)
黒坂圭太と黒澤潤といえば、いずれも日本の実験映画の中堅を代表する作家たちだが、ことさらこの二人を組合わせて何かを考えようとする発想はこれまでなかったのではなかろうか。したがって私はこの企画を聞いたとき、不意に盲点を突かれたようにどきりとしたことを否定できない。二人の作風の外見上のちがいにもかかわらず、たしかにその組合わせからは、一つの示唆的な問題圏が浮上してくるように思えたからである。
むろん一見したところ黒坂圭太と黒澤潤の作品世界は似ていない。似ていないというより、ある意味では対照的ですらある。たとえば黒坂は描画や写真や粘土のコマ撮りが基本だが、黒澤はあくまで実写映像の現実感に固執する。また黒坂が人工的なイメージの妄想的なメタモルフォーズと増殖をグロテスクなまでに爆発させてゆくとすれば、黒澤は一切の説明を排して嗜虐的に壮麗化された隠喩的なイメージを沈黙と紙一重のところまで内向させずにはおかない。黒坂の映画はめくるめくイリュージョンへのエクスタシーに誘われるが、黒澤の映画では光そのものやフィルムそのものなどの物質的次元と鮮烈な幻視に引裂かれて、覚醒した眩暈のような不思議なはざまの世界に宙吊りにされる。その意味では黒坂は偏執型のホットな映像造形家であるのに対して、黒澤は分裂型のクールな映像詩人だとも言えるだろう。
このように黒坂圭太と黒澤潤とは、作家の趣向や作風において対照的に違っている。にもかかわらずこの二人には、あまりにも明白な形で本質的な共通点があることも事実なのだ。それは何よりも、彼等がそれぞれのこだわりを追求してゆく過程で、ほとんど度を超して作品世界が狂気を帯びてゆくということにほかならない。それは日常の規範化された秩序から見たら、その整合性と調和をおびやかすノイズと映ることだろう。しかし見方を変えればそのノイズこそ世界の固定化をゆさぶる實に過激な創造的パワーである。
いかにもぬるま湯にひたったような現在の分別くさい状況の中で、いま一番欠けているものはそのような狂気だが、黒坂圭太と黒澤潤の中にはそれがみなぎっている。私がこの二人の組合せから一つの示唆的な問題圏が浮上してくるように思えたというのはそのことである。この企画が、20世紀の終幕を撹拌するラジカルな旋風を巻き起してくれることを期待してやまない。
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