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黒澤 潤

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黒澤潤短編作品集 -FLOATING ANGELFOOD-
Short Films of Jun Kurosawa(52min)
   
●作品データ    
東京天使病院 16mm COLOR 14min 1989年
スピノザのレンズ 16mm COLOR 12min 1989年
片足の神様 16mm COLOR+B&W 12min 1991-94年
Un Ange Passe 16mm COLOR+B&W 14min 1995年

『猫耳』前後に製作された黒澤潤の短編映画代表作4本を特別公開!
荒涼とした風景に天使が浮遊する死と救済の幻覚イメージ。

『東京天使病院』 1992年 カールスルエ国際短編映画祭(ドイツ)
  1994年 オーバーハウゼン国際短編映画祭(ドイツ)
『スピノザのレンズ』 1993年 ロッテルダム国際映画祭
『片足の神様』 1995年 ニューヨーク短編映画祭(アメリカ)
  1995年 ハンブルグ短編映画祭(ドイツ)
  1996年 ロンドン短編映画祭(イギリス)
『Un Ange Passe』 1996年 エジンバラ国際映画祭
  1997年 シカゴ・アンダーグラウンド映画祭
片足の神様

 

Un Ange Passe
 
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●解説    

東京天使病院
墓場で風に揺れる赤い薔薇、薔薇を喰べる男、女の裸体に書かれた文字、etc.…。全面に杉浦雅子の詩「連合赤軍浅間籠城中の刺青文字」の音声と文字が画面で流れ、赤、青、白い画面がコマ単位で挿入されるフリッカー効果も相まって、不気味な死の世界へと誘うイメージが満ち溢れている。

スピノザのレンズ
唐突にレンズの前で浮遊するかのように泳ぐ金魚、前方には駅のホームや住宅街が広がっている。そして金魚の死骸が川に放たれた後に、目くるめく光の乱舞の先には金魚に代わって1コマずつに切り離された8ミリフィルムの群が揺れ泳ぐ。スピノザのレンズというフィルターを通して見た光景は平凡な日常とは異なる、浮れ動く不安定な我々自身の心そのものかもしれない。

片足の神様
『片足の神様』は音と映像において、最も実験的な作品のひとつである。黒澤はフィルムを物質として扱うことにより、また、人間を物質として扱うことにより、フォトジェニーの新たな理論を構築している。それはフェティシズムかもしれないが、我々は大音量のノイズと共に、物質的恍惚を感じることが出来る。

Un Ange Passe
20世紀末の核戦争により、殆どの人々が死んでしまった。しかし、ただ一人、少女だけが生き残った。彼女は他にも生き残った人がいると信じている。そして毎日毎日、頭に取付けた装置を通じて、他者との交信を試みる。彼女は自分の幻想を他者から送られて来たものと誤解し、幻の他人を自らの頭の中に作り上げる。

   
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●プロフィール    

1964年生まれ。多摩美術大学美術学部卒。様々なバンド活動を経て、大学在学中より短編映画を撮り始める。初の長編作品『猫耳』は、93年のロッテルダム国際映画祭正式招待作品として初公開され、ヨーロッパ25都市で巡回上映され現地で絶大な支持を得る。日本では東京・恵比寿の特設会場においてプレミア上映され、自主制作映画としては記録的な観客数を動員した。

   
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●コメント    

狂気を帯びた異型のパワー/松本俊夫(映像作家)

 黒坂圭太と黒澤潤といえば、いずれも日本の実験映画の中堅を代表する作家たちだが、ことさらこの二人を組合わせて何かを考えようとする発想はこれまでなかったのではなかろうか。したがって私はこの企画を聞いたとき、不意に盲点を突かれたようにどきりとしたことを否定できない。二人の作風の外見上のちがいにもかかわらず、たしかにその組合わせからは、一つの示唆的な問題圏が浮上してくるように思えたからである。

 むろん一見したところ黒坂圭太と黒澤潤の作品世界は似ていない。似ていないというより、ある意味では対照的ですらある。たとえば黒坂は描画や写真や粘土のコマ撮りが基本だが、黒澤はあくまで実写映像の現実感に固執する。また黒坂が人工的なイメージの妄想的なメタモルフォーズと増殖をグロテスクなまでに爆発させてゆくとすれば、黒澤は一切の説明を排して嗜虐的に壮麗化された隠喩的なイメージを沈黙と紙一重のところまで内向させずにはおかない。黒坂の映画はめくるめくイリュージョンへのエクスタシーに誘われるが、黒澤の映画では光そのものやフィルムそのものなどの物質的次元と鮮烈な幻視に引裂かれて、覚醒した眩暈のような不思議なはざまの世界に宙吊りにされる。その意味では黒坂は偏執型のホットな映像造形家であるのに対して、黒澤は分裂型のクールな映像詩人だとも言えるだろう。

 このように黒坂圭太と黒澤潤とは、作家の趣向や作風において対照的に違っている。にもかかわらずこの二人には、あまりにも明白な形で本質的な共通点があることも事実なのだ。それは何よりも、彼等がそれぞれのこだわりを追求してゆく過程で、ほとんど度を超して作品世界が狂気を帯びてゆくということにほかならない。それは日常の規範化された秩序から見たら、その整合性と調和をおびやかすノイズと映ることだろう。しかし見方を変えればそのノイズこそ世界の固定化をゆさぶる實に過激な創造的パワーである。

 いかにもぬるま湯にひたったような現在の分別くさい状況の中で、いま一番欠けているものはそのような狂気だが、黒坂圭太と黒澤潤の中にはそれがみなぎっている。私がこの二人の組合せから一つの示唆的な問題圏が浮上してくるように思えたというのはそのことである。この企画が、20世紀の終幕を撹拌するラジカルな旋風を巻き起してくれることを期待してやまない。

   
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